“あのインテル”に日本人選手が加入する日が来るなんて、しかも“守備の国”イタリアで日本人DFが脚光を浴びる日が来るなんて。長いこと時代遅れの価値観にしがみついていた自分にはそう簡単に信じられなかった。彼がやってのけたことには、とんでもないインパクトがあった。まずはそれを、忘れないうちに強調しておきたい。
7年半のインテル在籍期間において、長友がとりわけ輝いた時期は2度あった。1つは、冬のマーケットでチェゼーナから加入したばかりの2010-11シーズン。そしてもう1つは、ゲームキャプテンとして腕章を巻くこともあった2013-14シーズンである。まずは前者から振り返ろう。
インテルにたどり着くまでの過程は、シンデレラ・ストーリーそのものだった。
大学を中退してプロになったのが2008年。同年5月に日本代表に初選出され、8月には北京五輪に出場。日本代表の定位置を確固たるものとすると、2年後の2010年には不動のレギュラーとして南アフリカW杯に出場した。カメルーン戦ではサミュエル・エトーを、オランダ戦では切り札として途中出場してきたエライロ・エリアを完封。日本の決勝トーナメント進出に大きく貢献し、その夏、セリエA・チェゼーナへの移籍をたぐり寄せた。さらに、たったの半年間でその時点での十分な実力と可能性を証明し、冬のマーケット最終日にインテルへの移籍を決めたのである。
チェゼーナ時代、開幕前のキャンプでルームメイトだったマルコ・パローロ(現ラツィオ)は当時こう話した。「ユウトはあっという間にチームに溶け込んだよ。ずば抜けて明るい性格のおかげでもあるけれど、それだけじゃない。選手としての能力が高かったんだ。ユウトはいつも、自分が何をすべきかをよく理解していた。それから、イタリアに来た時点でかなりイタリア語ができていた。きっとめちゃくちゃ勉強したんだろうね。合流してから数週間後には、俺たちの言っていることをほとんど理解していたよ。だから、チームメイトはすぐに“戦力”とみなしていた」
インテルでもまったく同じ光景が見られた。キャプテンのハビエル・サネッティが“おじぎ”を真似たことがきっかけとなり、長友の独特の存在感は一気にクラブ全体に行き届いた。直後に起きた東日本大震災の悲劇はあまりにも大きかったが、その精神的ショックを必死のプレイで乗り越えようとする長友をチームメイトは皆リスペクトした。
もっとも、ピッチの中では苦悩もあった。当時について、長友はこう話している。
「チェゼーナに加入した時は『やれる』と思いました。でも、インテルはまったくの別世界だった。正直なところ、『ムリかもしれない』と思いましたね。あそこでは1つのミスも許されないし、まして僕は“外国籍助っ人”ですから、メディアもサポーターもものすごく厳しい。ものすごいプレッシャーでした」
インテルでの1年目、その半年間はリーグ戦13試合に出場して2得点。チャンピオンズリーグとコッパ・イタリアでそれぞれ3試合に出場し、コッパ・イタリアではイタリアで唯一となるタイトルを手にした。ただし、この半年については数字や結果よりすんなりとチームの“一員”になれたという事実の持つ意味が何より大きい。インテルはそれまでリーグ5連覇、前年の2009-10シーズンには3冠を成し遂げた当時の世界トップクラブだった。そこに飛び込み、結果を残して完全移籍を勝ち取った半年間は、彼のキャリアにおける最も大きな成功の1つであり中身の濃い時間だったに違いない。