[特集/欧州サムライ伝説 04]特別から当たり前へ 海外移籍ラッシュはじまる

短期間の挑戦から、長く活躍する場へ

短期間の挑戦から、長く活躍する場へ

ヴェンゲルに導かれてアーセナルに加入した稲本。複数の国を渡り歩き、欧州で長くプレイした photo/Getty Images

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 1990年代、日本サッカーは急激な進化を遂げていった。Jリーグ開幕に、W杯初出場。これらのイベントに後押しされ、日本人選手たちは確実にレベルアップ。世界各国のクラブから注目されるようになり、多くの選手が海を渡るようになっていった。ただ、当時はまだ海外移籍は特別なもので、選手にとっては大いなる挑戦であり、受け入れるクラブも真に実力を認めたわけではなく、スポンサー対応やマーケティング戦略を考慮している面があった。

 そうしたなか、1999-2000シーズンにベネチアに移籍した名波浩は、アルバロ・レコバ(ウルグアイ代表)に代わる司令塔として鳴り物入りで加入した。同じレフティーだったため、かなり期待値が高かったのである。しかし、このシーズンのベネチアはパスサッカーなど展開できず、1シーズンの間に監督交代を3度も行なうなど低迷した。いかに高い技術力を持つレフティーでも、自身の力だけでチームを立て直すことはできなかった。

「ナナミは入るクラブを間違えた」
 シーズン終了後、こう評価した地元メディアがあった。これに関しては、いまもたまにみられるケースで、海外移籍するときは自分に合っているチームかどうか、しっかりと見極める必要がある。

 同じ99-00シーズンの冬には、城彰二がバジャドリードにローンで加入している。短期間で15試合に出場して2得点を奪い、結果は残した。身体を張ったポストプレイ、俊敏な動きなどが評価され、一時は完全移籍もあるかと考えられた。しかし、左ヒザの古傷がネックとなり、契約ならず。名波と城は同じタイミングで帰国することとなった。

 その翌シーズンの冬には西澤明訓がエスパニョールに加入し、6試合に出場。しかし、得点することはできず、01-02シーズンにボルトンへ移籍。カップ戦に出場したもののプレミアリーグには出場できず、2年間で国内復帰している。徐々に海を渡る選手が増えていたが、ポジションを獲得し、長くプレイする選手はまだ少なかったのである。

 01-02シーズンには川口能活がポーツマス(2部)に、アーセン・ヴェンゲルが高評価していた稲本潤一がアーセナルに移籍している。しかし、両者ともになかなか出場機会を得られず、稲本は翌年からフラムにローンとなった。すると、19試合2得点という数字を残したが、ほぼ半数の10試合が途中出場であり、まだ不完全燃焼だった。一方、2年目の川口もポジションを獲得するに至っていなかった。

 フラムでプレイする稲本に光明がみえたのは03-04シーズンで、指揮官を務めるクリス・コールマンの信頼を得て22試合(先発15試合)に出場し、2得点した。いよいよこれから……と思われたが、シーズン終了後の6月1日に行なわれた日本代表×イングランド代表の強化試合で左足スネを骨折し、フラムに残ることができなかった。

 ただ、その後も欧州でのプレイを続け、イングランド、ウェールズ、トルコ、ドイツ、フランスを渡り歩いた。短期間で帰国する日本人選手が多かったなか、稲本は2010年に川崎へ移籍するまで欧州でプレイを続けている。

 川口もノアシェランに移籍し、日本人としてはじめてデンマークでプレイした。ベルギーでは遠藤雅大や鈴木隆行が、南米では高原直泰や廣山望が奮闘していた。海外移籍は決して特別ではない。世界各国でプレイすることが、徐々に普通のこととなっていったのである。

分母が増えるとともに息の長い選手が出てきた

分母が増えるとともに息の長い選手が出てきた

高原は特に06-07シーズンにはブンデスリーガで二桁得点を記録し注目された photo/Getty Images

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 高原直泰はボカ・ジュニアーズ(01)へのローンにはじまり、ハンブルガーSV(02-06)、フランクフルト(06-08)でプレイ。欧州時代は国こそ違ったが、小野伸二や稲本潤一といった“旧友”たちと同時期にプレイし、コンスタントに得点もしていた。

 ハンブルガー時代の04-05シーズンにはチーム内のFW最多の7得点をあげ、地位を確立した。フランクフルトに移籍した06-07シーズンには第15節アーヘン戦でブンデスリーガにおける日本人選手初のハットトリックを達成。その後も好調を維持し、下位に低迷するチームのなかでハツラツとした動きをみせ、海外リーグで自身初の二桁となる11得点している。

 継続して海外でプレイする選手が出てきた背景には、分母の増加が関係していた。多くの選手が海を渡れば、それだけ息の長い選手が多くなってくるものだ。

 02-03シーズンの途中には戸田和幸がトッテナムに加入し、プレミアリーグ4試合に出場し、翌シーズンにオランダのデン・ハーグへ。 03-04シーズンには冬の移籍も含めて柳沢敦(サンプドリア)、藤田俊哉(ユトレヒト)などが新天地へ。柳沢は15試合に出場したが、そのうち13試合が途中出場で結果を残すには厳しく、無得点に終わった(翌年メッシーナに移籍)。一方、藤田はシーズン途中の加入にも関わらずチームに馴染み、14試合1得点という結果を残した。しかし、ローン元の磐田、ローン先のユトレヒトのチーム事情から完全移籍には至らなかった。

 この時代、どちらかといえば稲本や高原のように複数の移籍を経て長くプレイする選手よりも、1年~3年で帰国する選手が多かった。そうした選手が増えるなか、継続して活躍する選手が出てくるようになったのである。

 若いうちに行くか、Jリーグで十分な実績を積んでから行くか。ここにも、大きな違いがある。たとえば、名波は即戦力として期待されていたが、稲本はポテンシャルが評価されていて、将来性を買われていた。そういった意味で、年齢に関わらずすぐに結果を出さなければならない状況で移籍すると、プレッシャーが大きいといえる。

 そうしたなか結果を残したのが、04-05シーズンにマジョルカに移籍した大久保嘉人である。Jリーグで活躍し、04年アテネ五輪でもU-23代表の一員としてプレイ。マジョルカには冬の移籍で加入したが、チームはこの時点で降格争いに絡んでいた。間違いなく、大久保は即戦力として期待されていた。

 チームが低迷するなか、第18節デポルティボ戦でデビューすると、1得点1アシストで2-2のドローに貢献。この一戦でケガをしたためしばらく出場できなかったが、終盤を迎えて連続ゴールするなど13試合出場(先発7試合)で3得点し、1部残留に貢献している。

 ところが、難しいのは継続して活躍することで、この大久保も翌シーズンは監督交代などもあってサブにまわることが多く、自身が納得するプレイができず。ローン期間を延長することなく、1年半で帰国している(後にふたたび欧州へ移籍)。

 中田浩二(マルセイユ→バーゼル)、大黒将志(グルノーブル→トリノ)、小笠原満男(メッシーナ)、宮本恒靖(レッドブル)、三都主アレサンドロ(レッドブル)などは、Jリーグや日本代表で経験を積み、海外移籍した選手たちである。

 対して、森本貴幸は06-07シーズンに18歳でカターニアへ加入した。いまは珍しくないが、当時としては斬新な10代での移籍だった。そして、同シーズンにセリエAでの日本人最年少得点を記録し、ローンから完全移籍を果たした。その後、ノヴァーラへの移籍などを経て、12-13シーズンまでセリエAでプレイ。度重なるケガに泣かされた部分もあったが、第一線で戦い続けた。

 ザッと振り返っただけでも、2000年代になって本当に多くの選手が海外移籍をしている。無論、実際にはここに名前をあげた以上に多くの選手が海を渡っている。しかし、ひとつ言えることがある。それは、所属しているチームの多くが優勝争いするようなビッグクラブではなく、中位、下位のチームだということ。中田英寿や中村俊輔のように、リーグ優勝を経験する選手がなかなかいなかった。

 そうしたなか、07-08シーズンの途中にヴォルフスブルクに加入した長谷部誠は、翌年に中心選手としてマイスターシャーレ(優勝皿)を掲げている。新時代の幕開けで、その後は各国リーグの強豪チームで日本人選手がプレイするようになっていった。

文/飯塚 健司

※電子マガジンtheWORLD245号、5月15日配信の記事より転載

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