[特集/平成の日本代表史 01]世界への扉を開けた平成元年〜平成10年

Jリーグ開幕とドーハの悲劇

Jリーグ開幕とドーハの悲劇

1993年10月21日。アメリカW杯アジア最終予選の韓国戦に臨むスタメン。上列左から松永成立、勝矢寿延、 長谷川健太、吉田光徳、中山雅史、三浦知良、堀池巧、森保一、井原正巳、柱谷哲二、ラモス瑠偉 photo/Getty Images

 平成という時代が幕を開けた1989年の日本サッカーは、夜明け前の暗闇に包まれていた。

 同年のイタリアW杯アジア1次予選は、北朝鮮の後塵を拝して最終予選進出を逃した。翌90年のダイナスティカップでも、韓国、中国、北朝鮮に3連敗した。

 90年初秋のアジア大会では、ブラジルから帰国したカズこと三浦知良が代表デビューを飾った。日本に帰化したラモス瑠偉も加わったが、サウジアラビアやイランに歯が立たなかった。91年の日韓定期戦に0対1で敗れると、韓国のエースだったチェ・スンホに「100年経っても日本は韓国に勝てない」と切り捨てられた。

 視界が広がっていくのは92年からである。日本代表史上初の外国人監督としてハンス・オフトが就任すると、同年のダイナスティカップ、アジアカップを立て続けに制す。オフトは母国オランダの組織的なサッカーを推し進めながらカズやラモスの個性も生かし、“水を運ぶ人”として森保一や吉田光範らも重用した。

 93年のJリーグ開幕も、日本代表の強化に直結していく。ジーコやリトバルスキーらのビッグネームと対戦することで、とりわけ守備陣の経験値は高まった。

 その一方で、週2回開催の過密日程が選手の身体を蝕んでいく。オフトの戦術のキーパーソンとなっていた左サイドバックの都並敏史が負傷し、10月のW杯アジア最終予選の出場が絶望的になってしまう。さらに攻撃の仕掛けから仕上げまでを担っていた福田正博が、所属する浦和レッズの不振に引きずられるように精神的なコンディションを落としてしまうのだ。

 カタールの首都ドーハを舞台とした最終予選は、6か国による総当たりのリーグ戦で争われた。日本は2試合終了時点で最下位と出遅れるものの、北朝鮮との第3戦に3対0で快勝し、韓国との第4戦にも1対0と競り勝つ。サウジアラビアと並ぶ首位で、イラクとの最終戦に臨んだ。カズと中山雅史が得点した日本は、2対1とリードして終盤を迎える。ところが、後半終了間際にショートコーナーから失点し、勝利を逃してしまう。得失点差で3位に転落した日本は、土壇場でW杯初出場を逃した。世にいう“ドーハの悲劇”である。

ベテランと若手が融合したゾーンプレス

ベテランと若手が融合したゾーンプレス

1997年11月16日。フランスW杯出場を賭けたイランとのプレイオフで岡野雅行が歴史的なゴール。延長後半にこぼれ球をスライディングで押し込み、日本中に歓喜が訪れた photo/Getty Images

 オフト後のチームを託されたのは、ブラジル人のパウロ・ロベルト・ファルカンだった。82年のW杯でジーコらとともにプレイした彼は、思い切った世代交代を図る。しかし、半年後のアジア大会で設定されていた「ベスト4以上か韓国より上の成績」というノルマは達成できなかった。

 はからずも韓国と激突した準々決勝は、死闘と言っていい内容だった。期限付き移籍中のセリエA・ジェノアから合流したカズが、先制点を叩き出す。2失点を喫した86分、井原正巳が矢のような弾道のロングシュートを突き刺す。ところが89分、微妙な判定からPKを献上し、2対3で押し切られたのだった。

 ファルカンの後任に就いた加茂周は、“ドーハの悲劇”を経験したベテランを復帰させた。並行して山口素弘、名波浩、相馬直樹、名良橋晃、森島寛晃らを代表に取り込み、彼自身の代名詞となっていた“ゾーンプレス”を浸透させていく。96年のアトランタ五輪終了後には、川口能活、前園真聖、城彰二らも吸い上げた。

「できるだけ相手ゴールに近い位置でボールを奪い、そのままフィニッシュへ持ち込む」ことを目的としたゾーンプレスは、96年12月のアジアカップで大きな課題を突き付けられる。中盤を省略してロングボールを放り込んでくるクウェートに、準々決勝で0対2の苦杯をなめるのだ。

 それでも、翌97年3月に開幕したフランスW杯アジア1次予選は5勝1分の無敗で通過する。 1次予選途中からは中田英寿が代表入りし、前園に代わって攻撃的MFのポジションをつかむ。アトランタ五輪後にスペインへの移籍が取り沙汰され、最終的に横浜フリューゲルスからヴェルディ川崎へ97年1月に移籍した前園は、メンタルコンディションを整えられずに代表から遠ざかっていった。

崖っぷちからの生還 掴んだW杯出場権

崖っぷちからの生還 掴んだW杯出場権

W杯で日本人初ゴールを決めた中山雅史 photo/Getty Images

 97年9月に開幕したアジア最終予選は、10チームが二つのグループに分かれてホーム&アウェイの総当たりリーグ戦で争った。アジアの出場枠は3.5で、各グループの1位が出場権を獲得し、2位同士が第3代表決定戦を戦う。第3代表決定戦の敗者は、オセアニア地区1位との大陸間プレイオフに望みをつなぐことになる。

 グループBの日本は、ウズベキスタンとの第1戦で6対3と大勝した。カズが4得点をあげた。第2戦は96年アジアカップ準優勝のUAEと、アウェイで引き分けた。ここまでは悪くない。

 景色が暗転したのは第3戦からだ。ホームの韓国戦で1対2の逆転負けを喫すると、続くカザフスタン戦も終了間際の失点で引き分けてしまう。

 その日の夜に、加茂周監督の更迭と岡田武史コーチの監督昇格が発表された。チームはカザフスタンからウズベキスタンへ移動して、1週間後に最終予選の第5戦を戦う。日本から新監督を呼び寄せる時間はなく、内部昇格で乗り切るとの判断だった。

 しかし、ウズベキスタン戦も1対1のドローに終わり、続くUAEとのホームゲームも1対1で終了する。この時点で韓国の首位通過が決まり、日本はUAEに次ぐ3位だった。当初はウズベキスタン戦のみ采配を振るうはずだった岡田コーチが正式に監督となっても、負の流れを断ち切ることはできないのである。

 11月2日の第9戦は、ソウルでの韓国戦だった。開始1分に名波が先制弾をゲットし、呂比須ワグナーが加点してリードを広げる。韓国を零封した日本は、翌日のUAEの結果を受けて2位に浮上した。カザフスタンとの最終戦も5対1で圧勝し、第3代表決定戦へ進出する。

 イランとの過酷なサバイバルは、激しいシーソーゲームとなる。39分に中山のゴールで日本が先制するものの、後半開始直後に同点とされ、60分には試合をひっくり返されてしまう。

 それでも77分、途中出場の城がヘディングシュートを突き刺して同点とする。ゴールデンゴール方式の延長戦では、“野人”岡野雅行がスライディングで押し込み、3対2でイランを振り切る。02年の日韓W杯共催を前に、日本は初のアジア予選突破を果たしたのだ。

 そして迎えた本大会、グループステージのジャマイカ戦で中山雅史がW杯日本人初ゴールを挙げた。3戦全敗で大会を去ることになったが、世界への扉は確実に開かれたのだった。

文/戸塚啓

theWORLD(ザ・ワールド)2019年5月号『平成の日本代表クロニクル』特集より転載

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