[特集/欧州サムライ伝説 7]ミランの「10」をまとった日本人 本田圭佑が魅せたプロ意識

日本人がミランの「10番」 その日は本当にやってきた

日本人がミランの「10番」 その日は本当にやってきた

2014年10月のキエーヴォ戦。本田は得意のFKを叩き込んだ photo/Getty Images

 フリット、サビチェビッチ、ボバン、ルイ・コスタ……。サッカーファンにとって、ミランの「10番」はいうまでもなく特別だ。その番号を唯一背負ったことがある日本人選手、それこそが本田圭佑である。

 本田圭佑のミラン挑戦を、失敗だったと言う人もいる。しかし考えてもみてほしい。幼い頃に学校の作文に書き記した「セリエAで10番になる」という夢を、本当に叶えてしまったのだ。しかもミランである。そんな途方もない夢をつかんだ人間が、果たしてどれだけいるというのだろう。本田の“成り上がり”は、スケールがケタ違いにでかい。

 ガンバ大阪のジュニアユースからユースへの昇格を見送られた本田は、星陵高校で名を上げ、名古屋グランパスエイトに加入した。その後、2008年にオランダに渡ってVVVフェンロで海外挑戦を始めると、2010年からはCSKAモスクワで活躍。チャンピオンズリーグにも出場し、日本代表MFの評判は世界で知られていった。

 本田がミランの一員になったのは2014年1月。ただ、イタリアで知られるようになったのは、その少し前に遡る。

 2012年冬、ラツィオが本田の獲得に迫っていることが明らかになった。最終的にCSKAの要求額が高く決定には至らなかったが、ラツィオが獲得に本腰を入れていたため、一気に注目度が上がった。これを機に、イタリアではたびたび本田の名前が報じられるようになる。

 2013年になると、本田のミラン加入が頻繁に伝えられるように。新天地があまりのビッグクラブということで、日本の反応は「またエア移籍か」と冷ややかだったことを覚えている。しかし当時、ミランの番記者に聞くと、確信を持って「決まっている」と答えられたものだ。

 そして2013年12月11日、当時ミランの代表取締役だったガッリアーニ氏が、本田のミラン加入を認めた。それも「背番号は10だ」と明かし、世間を驚かせている。

磨かれ始めた周囲との連係 翌シーズン開幕とともに大暴れ

磨かれ始めた周囲との連係 翌シーズン開幕とともに大暴れ

本田に信頼を置いたフィリッポ・インザーギ監督 photo/Getty Images

 大きな期待を背負ってミランに加入した本田は、2014年1月15日のコッパ・イタリア、スペツィア戦でいきなりゴールを挙げた。

 セリエA初得点は、4月7日のジェノア戦まで待たなければならなかったが、その過程で本田の成長があったのは確かだ。加入当初、試合終了のたびに仲間と触れ合うことなく、一目散にロッカールームへ引き上げていった10番は、ジェノア戦の少し前から味方との接し方を変えたように映った。仲間の活躍を称えに駆け寄り、ミランのファミリーに加わろうとしていた。初ゴールに歓喜する本田に多くの仲間が寄って来たことは、その表れに見えた。

 努力の成果は、2季目に目に見える結果として出る。インザーギ監督体制で開幕スタメンの座をつかむと、その試合でゴール。右ウイングの定位置をつかみ、第7節までに6得点の大暴れを見せた。

 当時のセンターフォワードはメネズ。引いてパスを受けて自分でボールを触りたがるタイプのアタッカーで、本田はそこに生まれるスペースを狙っていた。第2節パルマ戦のヘディング弾はその象徴的な場面だったし、エンポリ戦ではフェルナンド・トーレスの動き出しに呼応して中のスペースを使い、ペナルティアークから決めた。最初のシーズンでは、本田が希望するトップ下のポジションが存在しなかったが、本田が自分の強みを押し出し、周囲がそれを理解したことで、この形はミランの一つの武器になった。

 初めてFKでゴールを決めた第6節キエーヴォ戦のあとには、「メネズが蹴りたがったけど、譲るところではなかった」と本田は語り、“らしさ”を覗かせた。結果を出し始めたからこそ、自分の主張を通せるようになったのだ。

 忘れられない瞬間の一つが2014年11月23日だ。インテルとのミラノダービー。長友佑都との日本人対決が実現した日である。

 1シーズン目のミラノダービーは、本田に出番がなく、日本人対決は実現しなかった。長友はこの試合の後「圭佑、出てきてくれ」と思いながらプレイしていたと話していたが、それから約半年、その時がきたのだ。

 本田圭佑が途中出場、互いに自チームの右サイドということでマッチアップがあったわけではない。それでも、ミラノダービーというサッカー界最高峰の舞台、それも両チームに日本人がいるという事実は、多くの人の心を躍らせた。

 2016年1月のミラノダービーでは、アシストを記録。ひいき目なしに、ミランの勝利に貢献する働きを披露した。88分、交代を命じられた本田にスタンドのファンが立ち上がって拍手。それまで辛口だったファンが手のひらをくるりと返したことが、活躍の証明だった。もちろん、メディアも絶賛。「ゴールはなかったがダービー男になった」「初のスタンディングオベーション。(ファンと)関係修復か」「(相手DF)ファン・ジェズスの悪夢になった」といった賛辞が贈られた。ミラノダービーという夢舞台で、すべての人を納得させたのだ。

本田が見せた夢物語は次代へ確実に受け継がれる

本田が見せた夢物語は次代へ確実に受け継がれる

本田が示した背番号「10」へのこだわりは、彼の勝者のメンタリティを如実に表している photo/Getty Images

 本田の挑戦は、やはり自ら10番を選んだことに大きな意味があったはずだ。カカーやバロテッリといった大スターがいる中で10番を背負う重みは並大抵ではないが、そこは自らを「挑戦者」とする本田。そのメンタリティこそが本田を本田たらしめた。名門で10番を背負うチャレンジは、本人だけではなく、周囲にもプラスだったはずだ。

「彼は練習の2時間前に来て、練習終了の2時間後に帰る」。前述のFK弾を決めたキエーヴォ戦のあと、インザーギ監督は本田についてそう語り、「ゴールは彼の功績」と言い切った。本田を起用した監督もそうでなかった監督も、共通して口にしていたのは、「プロ意識の高さ」。そこに疑問を持つ人は、ファンにも皆無だった。

 だからこそ、ほとんど出番がなかったシーズンの最終節、契約満了で退団が決まっていた本田に、キャプテンマークが託された。ミランを代表する選手としてふさわしい、そうチームに認められたのだ。

 本田のミラン加入以前に、「日本人選手がヨーロッパのビッグクラブで10番を付ける」なんて言えば、夢を見ることを忘れた現実主義者にコテンパンにたたき伏せられただろう。しかし、今は日本人選手が世界的ビッグクラブの主役になることが期待されている時代になった。本田の挑戦が新しい道を切り拓き、そこに新しい挑戦者が続いていく。本田の挑戦が完全に失敗だったら、永久に閉ざされた道だったかもしれない。しかし、彼の功績によって、後進に次のバトンを渡したことは確実だ。本田のミラン挑戦という夢物語は、本人の成長だけでなく、次の夢にもつながっている。

文/伊藤 敬佑

※電子マガジンtheWORLD246号、6月15日配信の記事より転載

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