[特集/平成の日本代表史 03]日本らしさを追い求めた平成19年~平成30年

病に倒れたオシム監督 岡田監督が想いを引き継ぐ

病に倒れたオシム監督 岡田監督が想いを引き継ぐ

2010年6月29日。パラグアイ戦スタメン。上列左から阿部勇樹、中澤佑二、川島永嗣、 田中マルクス闘莉王、本田圭佑、長谷部誠、長友佑都、遠藤保仁、駒野友一、大久保嘉人、松井大輔。南アでは阿部をアンカーに置き、強固な守備を形成 photo/Getty Images

 期待が大きかっただけに、ドイツW杯の惨敗は日本サッカー界に大きな落胆をもたらした。しかし、新たに監督となったイビチャ・オシムはたしかな実績と経験を持つ優れた指揮官で、その後の日本代表は明確な方向性を持って戦うようになっていった。

 オシム監督は目指すべきスタイルをわかりやすい言葉で説明した。選手たちが持つ技術、スピード、アジリティを生かしたスタイル、すなわち「日本らしいサッカー」(オシム監督)であり、これは目から鱗の強化方針だった。

 日本らしさを追求して世界に挑む。重要視されたのは献身的なプレイができて、ポリバレント(多様性)な能力を持つこと。さらには、常に考えながら走ることだった。

 身体も頭も疲労する──。オシム監督の練習メニューは複雑で、こなすごとに選手たちは確実に成長していった。試合によって3バック、4バックを使い分け、ときにはキックオフ後に相手の布陣をみてすぐにシステムが変更された。そうしたなか、最終ラインでも中盤でもプレイできる阿部勇樹、左右のサイドバック&サイドアタッカーをこなす駒野友一などがオシム監督のもと活躍した。

 2007年7月に開催されたアジア杯は3位決定戦の韓国戦に敗れて4位となったが、9月の欧州遠征ではオーストリアに0-0、スイスに4-3と好勝負を演じており、翌年に控えた南アフリカW杯アジア予選の開幕に向けて準備は進んでいた。ところが、同年11月に脳梗塞で倒れ、監督を続けられなくなった。突発的な出来事であり、予選を間近に控えて日本サッカーは緊急事態を迎えていた。世間から大きく注目されるなか、後任を務めたのはフランスW杯を戦った経験を持つ岡田武史監督だった。

 第二次岡田ジャパンの初戦は2008年1月16日のチリ戦( △0-0)だった。続く30日にはボスニア・ヘルツェゴビナ戦(○3-0)が行われ、2月6日には南アフリカW杯アジア予選がスタートしている。与えられた時間はわずかで“なにか”を加えたり、変化をつけたりする余裕はなかった。「基本的にはオシム監督がやっていたことを踏襲する」というのが岡田監督の方針だった。

 大事にされたのはチームへの献身性や状況に応じて判断する思考力で、その後も「個」の成長が求められた。また、この時期によく聞かれたのが Loyalty(ロイヤリティ=忠誠心)という言葉である。日本代表のために、チームのためにさまざまなモノを背負って必死にプレイできる選手でなければならないというものだった。

 第二次岡田ジャパンは順調にアジア予選を突破し、南アフリカW杯出場を決めた。しかし、本大会を前にチームのキモだった中村俊輔が本調子ではなくなったことで、日本らしさを全面に出して戦うことが難しくなっていった。決定的だったのは壮行試合となった2010年5月24日の韓国戦(●0-2)で、成す術なく敗れたことで嫌なムードが漂っていた。

 この窮地に、岡田監督は大胆な決断を下した。選手たちとの話し合いのすえ、阿部勇樹をアンカーとする3ボランチでしっかりと守備を固め、攻撃は本田圭佑の1トップ。急造のスタイルで南アフリカに乗り込んだのである。

 結果を出すための苦肉の策だったが、これが奏功した。本田が奪った1点を守り抜いて初戦のカメルーン戦に勝利し、オランダには敗れたもののデンマークをまたも本田の先制点、さらには遠藤保仁、岡崎慎司の追加点で3-1とし、当面の目標だった決勝トーナメント進出を決めてみせた。

 ラウンド16のパラグアイ戦はお互いが守備を意識する動きの少ない展開となり、0-0で進んだ。延長戦後半になって玉田圭司が投入されて前線が少し活性化されたが、勝ち越す時間は残されておらず、日本代表はPK戦で敗れた。このパラグアイ戦について岡田監督は、「もう少し早く攻撃に移行しても良かったかもしれない。選手たちにもっと攻めさせてあげるべきだったかもしれない」とのちに悔しそうに振り返っている。

自分たちらしさを追求するも本大会で力を発揮できず

自分たちらしさを追求するも本大会で力を発揮できず

2014年6月15日。 ブラジルW杯初戦のコートジボワール戦では、16分に長友のパスを受けた本田が豪快に蹴り込んで先制 photo/Getty Images

 南アフリカ大会で16強入りを果たしたものの、自分たちの力を発揮した内容ではなく、どこかすっきりしない部分があった。そうしたなか、4年後のブラジルW杯に向けて招聘されたのはアルベルト・ザッケローニ監督で、日本らしさ、自分たちらしさを出すスタイルが志向され、しっかりとポゼッションし、素早く正確にショートパスをつないで攻撃をビルドアップすることが追求された。

 中心となっていったのは本田をはじめ、長谷部誠、長友佑都、吉田麻也、香川真司、内田篤人といった欧州でプレイする選手たちだった。長友、香川、内田はいずれも南アフリカW杯後に海外移籍しており、この頃から日本代表の多くを“海外組”が占めるようになっていった。

 ザックジャパンの歩みは順調で、結成直後に臨んだアジア杯にいきなり優勝している。その後の親善試合や2011年9月2日の北朝鮮(○1-0)からスタートしたブラジルW杯アジア予選でも勝点を積み重ね、初黒星はチーム結成から18試合目(国際Aマッチではない東日本大震災復興支援チャリティマッチ含む)のアウェイでの北朝鮮戦で、これも主力メンバーではなく、出場経験が浅い選手たちで臨んだ結果だった。

 極めて順調に進んでいた代表強化だったが、2013年にブラジルで開催されたコンフェデ杯で綻びが生じた。ブラジル(●0-3)、イタリア(●3-4)、メキシコ(●1-2)に3連敗したことで、方向転換が求められた。しかし、残された期間は1年しかなかったし、南アフリカ大会と同じ戦いは選択したくなかった。ザッケローニ監督は選手たちを信じて継続性のある強化を続け、選手たちも自分たちのスタイルを貫く決心を固めていた。

 ところが、2014年ブラジルW杯を戦った日本代表は、またも日本らしさ、自分たちのスタイルを出すことができなかった。いや、あの時点ではある意味で日本らしい戦いをしたのかもしれない。大会に向けた調整がうまくいかず、初戦のコートジボワール戦(●1-2)に現れた選手たちは動きが鈍く、本田が奪った先制点を守りきれない。大会を通じて、日本代表は自分たちのスタイルを出し切れなかった。

「 もっとできたはずで、大会を通じてなぜこのようなパフォーマンスになってしまったかわからない。本来の力を発揮することができなかった。やり直せるとしたら、メンタル面へのアプローチをしたい」

 ザッケローニ監督はコロンビア戦後にこう語っていた。これは、ドイツW杯を戦ったジーコ監督が抱いた感想と同じだった。

新たな強化方針を進めるもロシアW杯直前に原点回帰へ

新たな強化方針を進めるもロシアW杯直前に原点回帰へ

2018年7月3日。決勝ラウンドのベルギー戦では、大会 ベストゴールとも言うべき乾の無回転ミドルが突き刺さる photo/Getty Images

 再建を託されたのはハビエル・アギーレ監督で、ブラジルW杯を戦ったメンバーを中心に2015年アジア杯に挑んだ。グループリーグを無失点の3連勝で勝ち上がったが、UAEとの準々決勝にPK戦で敗れ、早期敗退となった。

 この結果に加えて、アギーレ監督には過去に指揮官を務めていたクラブでの八百長疑惑が持ち上がっていた。日本サッカー協会(JFA)はこうした事態を憂慮し、契約を解除して新たな指揮官を迎える決断を下した。

 世界のサッカーに精通し、W杯でグループリーグを突破した経験を持つ監督。こうした条件を満たしていることで招聘されたのが、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督だった。

 ハリルホジッチ監督の強化方針はブレがなく、わかりやすかった。日本人選手が世界で戦うために足りていない部分にフォーカスし、個々の選手がデュエルに強くなることが求められた。さらには、プレスをかけるゾーンは試合によって違ったが、ボールを奪ったら素早く縦に入れてゴールを目指すことに変わりはなく、縦に早いサッカーが徹底された。

 たしかに、試合をこなすごとに各選手が球際に強くなり、横パスが少なくなっていった。一方で、日本サッカーが持っていた一体感や連携が失われ、チームとしての完成度はなかなか高まらなかった。顕著だったのは2017年3月28日のタイ戦(○4-0)で、スコアとしては快勝だったが、狙いどおりのサッカーをしていたのはタイで、試合後の日本代表の選手たちに笑顔はなかった。

 苦戦しながらもなんとかロシアW杯の出場権を獲得したハリルジャパンだったが、その後の強化試合では結果&内容ともに振るわず、選手たちは危機感を抱いていた。ハリルホジッチ監督には確固たる信念があり、対応や方向性にも変化がみられなかった。そもそも、ハリルホジッチ監督の強化方針はそれまでJFAが推し進めていた“日本らしさ”を全面に出すものではなく、最初からボタンを掛け違えていた。ロシアW杯の直前になってようやく監督交代が決断されたが、遅すぎた解任であり、後手を踏んだJFAの不手際だった。

 後任を務めた西野朗監督のもと原点回帰した日本代表は、急ピッチでマイナーチェンジしてロシアW杯に挑んだ。どんなときも縦に急ぐのではなく、状況によってはポゼッションして時間を作る。これだけの変化をつけることで、だいぶチームが落ち着いた。そして、大迫勇也、乾貴士、柴崎岳、原口元気、昌子源といった選手たちの活躍もあり、4年前の悪夢を払拭するラウンド16進出を果たしてみせた。

 昭和がアジア勢との厳しい戦いに敗れ去っていた時代だとしたら、平成は世界へのトビラが開かれ、大きく躍進した時代だった。いまはもう、目指すべき方向性がしっかりと定まっている。おそらく、もう揺らぐことはないだろう。このままのペースで発展を続けていけば、まだわれわれ日本人が知らない領域、W杯ベスト8、さらにはその先の景色を、令和の時代に見られるかもしれない。

文/飯塚健司

theWORLD(ザ・ワールド)2019年5月号『平成の日本代表クロニクル』特集より転載

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