期待が大きかっただけに、ドイツW杯の惨敗は日本サッカー界に大きな落胆をもたらした。しかし、新たに監督となったイビチャ・オシムはたしかな実績と経験を持つ優れた指揮官で、その後の日本代表は明確な方向性を持って戦うようになっていった。
オシム監督は目指すべきスタイルをわかりやすい言葉で説明した。選手たちが持つ技術、スピード、アジリティを生かしたスタイル、すなわち「日本らしいサッカー」(オシム監督)であり、これは目から鱗の強化方針だった。
日本らしさを追求して世界に挑む。重要視されたのは献身的なプレイができて、ポリバレント(多様性)な能力を持つこと。さらには、常に考えながら走ることだった。
身体も頭も疲労する──。オシム監督の練習メニューは複雑で、こなすごとに選手たちは確実に成長していった。試合によって3バック、4バックを使い分け、ときにはキックオフ後に相手の布陣をみてすぐにシステムが変更された。そうしたなか、最終ラインでも中盤でもプレイできる阿部勇樹、左右のサイドバック&サイドアタッカーをこなす駒野友一などがオシム監督のもと活躍した。
2007年7月に開催されたアジア杯は3位決定戦の韓国戦に敗れて4位となったが、9月の欧州遠征ではオーストリアに0-0、スイスに4-3と好勝負を演じており、翌年に控えた南アフリカW杯アジア予選の開幕に向けて準備は進んでいた。ところが、同年11月に脳梗塞で倒れ、監督を続けられなくなった。突発的な出来事であり、予選を間近に控えて日本サッカーは緊急事態を迎えていた。世間から大きく注目されるなか、後任を務めたのはフランスW杯を戦った経験を持つ岡田武史監督だった。
第二次岡田ジャパンの初戦は2008年1月16日のチリ戦( △0-0)だった。続く30日にはボスニア・ヘルツェゴビナ戦(○3-0)が行われ、2月6日には南アフリカW杯アジア予選がスタートしている。与えられた時間はわずかで“なにか”を加えたり、変化をつけたりする余裕はなかった。「基本的にはオシム監督がやっていたことを踏襲する」というのが岡田監督の方針だった。
大事にされたのはチームへの献身性や状況に応じて判断する思考力で、その後も「個」の成長が求められた。また、この時期によく聞かれたのが Loyalty(ロイヤリティ=忠誠心)という言葉である。日本代表のために、チームのためにさまざまなモノを背負って必死にプレイできる選手でなければならないというものだった。
第二次岡田ジャパンは順調にアジア予選を突破し、南アフリカW杯出場を決めた。しかし、本大会を前にチームのキモだった中村俊輔が本調子ではなくなったことで、日本らしさを全面に出して戦うことが難しくなっていった。決定的だったのは壮行試合となった2010年5月24日の韓国戦(●0-2)で、成す術なく敗れたことで嫌なムードが漂っていた。
この窮地に、岡田監督は大胆な決断を下した。選手たちとの話し合いのすえ、阿部勇樹をアンカーとする3ボランチでしっかりと守備を固め、攻撃は本田圭佑の1トップ。急造のスタイルで南アフリカに乗り込んだのである。
結果を出すための苦肉の策だったが、これが奏功した。本田が奪った1点を守り抜いて初戦のカメルーン戦に勝利し、オランダには敗れたもののデンマークをまたも本田の先制点、さらには遠藤保仁、岡崎慎司の追加点で3-1とし、当面の目標だった決勝トーナメント進出を決めてみせた。
ラウンド16のパラグアイ戦はお互いが守備を意識する動きの少ない展開となり、0-0で進んだ。延長戦後半になって玉田圭司が投入されて前線が少し活性化されたが、勝ち越す時間は残されておらず、日本代表はPK戦で敗れた。このパラグアイ戦について岡田監督は、「もう少し早く攻撃に移行しても良かったかもしれない。選手たちにもっと攻めさせてあげるべきだったかもしれない」とのちに悔しそうに振り返っている。