[特集/アトレティコの現在地 03]2部降格の低迷期も経てついに主役へ躍り出た 古豪アトレティコの波乱万丈ヒストリー

 レアル・マドリードは“富裕層のクラブ”、アトレティコ・マドリードは“労働者のクラブ”とよく言われる。“銀河系軍団”に代表されるように、同じ街のライバルであるレアルは常にサッカー界の花形。一方、本稿の主人公であるアトレティコには、スペインの強豪といえる立場を確かにつかみながらも、苦難と苦闘を味わい、華やかなレアルの陰に甘んじてきた歴史がある。

 だが、そんな労働者のアイデンティティこそアトレティコなのだ。エレニオ・エレーラ、ファン・カルロス・ロレンソ、そしてディエゴ・シメオネ。歴代のアルゼンチン人指揮官によって植え付けられた強靭な闘志は、レアルやバルサにはないアトレティコならではの魅力を放っている。

 泥臭いプレイスタイルも厭わず、2強に食らいつき続けたアトレティコ。ここでは、そんな彼らの波乱万丈なヒストリーを紐解いてみよう。

あと一歩のところで手から零れ落ちた欧州制覇

あと一歩のところで手から零れ落ちた欧州制覇

1973-74のチャンピオンズカップ決勝で、再試合の末にバイエルンに敗戦。両チームの選手でビッグイヤーを掲げるシーンも photo/Getty Images

 1903年に創設されたアトレティコ・マドリードは、赤と白の縦縞のジャージから「マットレス」という冴えないニックネームをつけられていた。スペインのマットレスは赤白の縦縞が多いそうで、それだけの理由だが、同じ色調のアスレティック・ビルバオは「マットレス」とは呼ばれていない。ちなみにアトレティコとアスレティックは兄弟関係で、もとはバスク人のために首都マドリードに作ったクラブだった。つまり出自からして“スペイン人”のクラブではなく、このあたりがレアル・マドリードとのライバル関係の発端といえるかもしれない。

 アトレティコはラ・リーガの古豪だ。1939-40、40-41とリーグ連覇。これを含めて10回の優勝を記録している。1973-74のチャンピオンズカップ決勝は最初にヨーロッパ王者に近づいたチャンスだったが、大会史上初となる決勝での引き分け再試合でバイエルン・ミュンヘンに敗れてしまった。

 このときの決勝はアトレティコ、バイエルンともに初のファイナルだった。アトレティコは残り時間5分までリードしていたのだが、バイエルンのセンターバック、ゲオルク・シュバルツェンベックに30メートルのシュートを決められて1-1となり、再試合を2日後に行っている(PK戦はまだ採用されていない)。アトレティコの1点はルイス・アラゴネスのFK。後にアトレティコやスペイン代表の監督になる、あのアラゴネスだ。会場はベルギーのヘイゼルスタジアム。後にユヴェントス対リヴァプールで暴動騒ぎ(1985年のヘイゼルの悲劇)となって死者負傷者多数となった、あのヘイゼルである。

 GKはミゲル・レイナ。息子は後にリヴァプールで名をはせたホセ・マヌエル・レイナだ。ただ、お父さんは息子のようにPKストッパーとして勇名をとどろかすのではなく、バイエルン戦の失策で有名になってしまった。シュバルツェンベックの大して強烈でもないロングシュートが入ってしまったのは、レイナがボールボーイにサインしていて反応が遅れてしまったからとされている。

 優勢だった試合を引き分けたショックか、終わり方がまずかったせいか、再試合はバイエルンに4-0と完敗だった。ただ、バイエルンはここから3連覇するチームであり、アトレティコを下した直後にはバイエルン勢を中心とした西ドイツがワールドカップで優勝している。相手も悪かった。

 監督はアルゼンチン人のファン・カルロス・ロレンソ。アルゼンチン、イタリア、スペインで成功した名監督で、現実的な戦法はディエゴ・シメオネのモデルともいえる人物だった。

若き才能の流出に2部降格 徐々に低迷の道をたどる

若き才能の流出に2部降格 徐々に低迷の道をたどる

降格を味わった1999-2000に指揮していたのは、クラウディオ・ラニエリだった。12試合を残してヘスス・ヒル会長の「ギロチン」が下されている photo/Getty Images

 欧州制覇を逃して以降もアトレティコはスペイン3強の一角であり、波はありながらもシメオネがやってくるまでにリーグ優勝は1976-77、1995-96と2度。レアル・マドリード、バルセロナに次ぐビッグクラブであり続けた。ただ、同じ首都のライバルであるレアル・マドリードには戦績でかなり見劣りしていたのは事実だ。マドリード・ダービーでも1983年に0-5の完敗を喫したり、1993年から15試合にわたって勝利を収められなかったりと、多くの屈辱を味わった。

 1987年に会長に就任したヘスス・ヒルは「ギロチン」と呼ばれたほど頻繁に監督解任を行い、クラブに栄光ももたらした半面、独善的な手法で多くの問題も引き起こした。おそらく最大の“罪”は下部組織の閉鎖だろう。ラウール・ゴンサレスはこれでレアルへ移籍している。アトレティコは強豪ではあったが、それ以上に名物会長の言動によるネタクラブになってしまっていた。レアル、バルサへの対抗意識から無理をしすぎていた。

 1999-00シーズンには2部降格も経験し、長い低迷に陥った。ヒル会長時代の巨額の負債も足を引っ張っていた。本格的に持ち直すのは2011-12シーズンの12月にディエゴ・シメオネが監督に就任してからだ。

シメオネが堅守を植え付け、返り咲いたスペイン3強の座

シメオネが堅守を植え付け、返り咲いたスペイン3強の座

18年ぶりのリーグ優勝。盛大なパレードでファンと喜びを分かち合う photo/Getty Images

 シメオネは同じアルゼンチン人で、かつてアトレティコの栄光を築いたロレンソに似た守備重視の手法を導入している。ロレンソが影響を受け、やはりアトレティコの栄光を築いたエレニオ・エレーラの手法ともいえる。1949-50、1950-51とリーガ連覇を達成したエレーラは5カ国のパスポートを持つコスモポリタンだが、いちおう生まれはアルゼンチンだ。

 アルゼンチンにはイタリアと似た守備型の系譜と、攻撃型の系譜が並列している。かつてはビラルド派(守備的スタイル)、メノッティ派(攻撃的スタイル)とも呼ばれたが、シメオネはそれでいうならビラルド派である。堅守でアトレティコを立て直し、圧倒的な求心力でまとめ上げた。レアル、バルサと同じ攻撃路線を採らなかったのは賢明だったといえる。資金面で差のある2強と同じやり方ではかなわない。シメオネは弱者の戦法を用いて強者となり、ラ・リーガを再び3強時代に引き戻したのだ。2013-14シーズンにはリーグ最少失点で18年ぶりのリーグ優勝を達成。欧州コンペティションでも11-12と17-18にヨーロッパリーグを2度制し、チャンピオンズリーグ決勝の舞台へも2度導いている。

 レアルが「20世紀のクラブ」となる原動力はアルフレード・ディ・ステファノだった。バルセロナの黄金時代の象徴はリオネル・メッシだ。そして、アトレティコを再興したシメオネ監督は、ラ・リーガに大きな影響をもたらした3人目のアルゼンチン人といえる。そしてシメオネ体制10年目の今シーズン、これまでの集大成といえるチームに進化したアトレティコはレアルやバルセロナといったライバルたちを押し除け、再びスペインの王座へ還りつこうとしている。

文/西部 謙司

※電子マガジンtheWORLD第255号、3月15日配信の記事より転載

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