[名良橋晃]“平成”という日本サッカーの濃い時代を回想する

J開幕で劇的に変化 日本サッカー躍進の時代

J開幕で劇的に変化 日本サッカー躍進の時代

シメオネと激しく競り合う。W杯を通じて、足りない部分、課題が明確になった photo/Getty Images

 平成の日本サッカーを振り返ると、1993年(平成5年)にJリーグが誕生し、アマチュアからプロへ劇的に変化することで大きな躍進を遂げた時代でした。正直、Jリーグ開幕前はプロ化されてもそんなに盛り上がらないだろうと考えていました。いま思えば、恥ずかしい限りです。実際はサッカーへの注目度が信じられないほど変わりました。

 こうした“濃い時代”を私も懸命に突っ走りました。1994年にファルカン監督が率いる日本代表にはじめて呼ばれましたが、平塚(現湘南ベルマーレ)でチームメイトだった名塚善寛さん、テル(岩本輝雄)などがすでに代表入りしていて、遠い存在だった日本代表が徐々に身近に感じられていった時期でした。ただ、初代表のときはやはりだいぶ緊張したのを覚えています。

 その後にフランスW杯アジア最終予選を戦ったチームは、一言で表すと大人なチームでした。W杯出場を勝ち取るという共通した目標のもと、プレイで魅せる人がいれば、しっかりとチームを引き締める人がいて、高い集中力をキープできていました。最終予選の日程がいまと違って短期間に集中していたので、試合がずっと続いている感覚でチームに一体感がありました。メディアなどからいろいろと厳しい指摘もありましたが、それを発奮材料として「やってやろう」という反骨心に繋げていました。
 1997年のアジア最終予選でまず思い浮かぶのは、UAEのとんでもない暑さと中央アジア2ヵ国(カザフスタン、ウズベキスタン)とのアウェイゲームです。カザフスタン、ウズベキスタンと戦ったスタジアムは「本当にここでやるの?」という印象を受ける施設で、いまの日本代表が練習で使用するスタジアムよりもひどい環境でした。ピッチは凸凹だし、ロッカールームやトイレに関しては、ちょっと引きましたね……。

 カザフスタン戦ではゴールの大きさが規定よりも狭かったのではないかという話を試合後に聞きました。後半に呂比須ワグナーのシュートがゴールポストに当たるプレイがあったので、既定どおりの大きさだったら入っていたかもしれません。そうなると、2-1で勝っていた可能性があります。 実際は1-1で引き分けたことで、その夜に加茂周監督が解任されました。もちろん、その夜のことは強烈に覚えています。ミーティングということで選手全員が呼ばれて告げられたのですが、漂う空気からもう察していました。その晩はみんなで集まり、軽くお酒を飲みながら話し合いました。あまり深刻な感じではなく、殺伐ともせずに他愛もない話題で時間が過ぎていった記憶があります。W杯に行くという目標に変化はなく、みんなが「やらなければ」という意識を持っていたので、変に混乱することはありませんでした。

 ただ、チームを引き継いだ岡田武史監督が選手と一線を引き、ピッチ内外でメリハリをつけた対応をしてくれたことでチームがピリッと引き締まりました。いよいよ危機感が高まり、W杯出場に向けてより強い意識を持つことができました。

ジョホールバルの歓喜後はすぐに家に帰りたかった

ジョホールバルの歓喜後はすぐに家に帰りたかった

2015年に開催されたイベントの一コマ。カズは現役のまま令和を迎えようとしている photo/Getty Images

 アジア第3代表決定戦となったジョホールバルでのイラン戦は、第3国での開催だったので最初は閑散としたスタジアムで盛り上がることもなく、淡々と進むのだろうなと思っていました。それが、実際は日本人のサポーターばかりで「ここ、マレーシアだよね?」という錯覚を覚えるほどでした。とんでもない雰囲気になっていて、モチベーションが高まり、がぜんやる気がみなぎりました。

 延長戦後半に野人(岡野雅行)がゴールデンゴールを決めたときは、W杯出場を決めた喜びよりも、やっと終わったなと思いました。ホッとしましたね。もし負けていたら、今度はオーストラリアとのプレイオフが待っていて、ホーム&アウェイだったのでもう2試合戦わなければなりませんでした。

 同年5月にはじめての子どもが生まれていたので、私はとにかく早く家に帰りたかったんです。かわいい赤ちゃんに会いたかったので、一刻も早く帰国したかった……。翌日に成田空港の近くで記者会見をしたときも、質問されるのは中心選手だけなのだから雛壇の選手は早く帰らせてくれよと思っていました。会見後、成田から嫁の実家がある新宿までホントに急いで帰りましたよ。

 すると、その日に行ったカレー屋でまわりの人から「おめでとう」と言われ、たまたま入ったコンビニでは女子高生が「昨日のサッカー見た?チョー興奮したよね!」と騒いでいました。そういった反応に触れることで、すごいことをなし遂げたんだ。感動してくれたんだと思うに至りました。

 1998年フランスW杯には3試合に負けた悔しさが残っています。パススピード、止める、蹴るという基本的な部分など課題が明確になり、正直なところ海外でやってみたい気持ちも芽生えました。そういった意味では、いまの選手たちが羨ましいです。それでも、私はJリーグのなかでW杯での経験を大事にしてプレイを続けました。海外でプレイしてみたかったですが、鹿島で多くのタイトルを取ることができたので、自分なりに高められたと思っています。

 ただ、2002年日韓W杯のときに代表に選ばれなかったのは悔いが残っています。選手として良かった時期なので、もう一度W杯に出場するチャンスだったのですが、海外でプレイすることとともに、これも叶いませんでした。

 最後に、1998年フランスW杯のメンバー選考でカズさん(三浦知良)が最後に外れましたが、岡田武史監督は相当悩んだと思います。個人的には、2つの思いがありました。チームを引っ張っている人だから、なんだかんだ外れないだろうなという思いと、プレイではやや動きにキレがなかったので、外れる可能性が多少は……という思いです。そして、カズさんはスタメンで活躍するタイプで、途中から起用される選手ではありませんでした。いろいろ悩んだ結果として、あの判断になったのだと思います。

 それにしても、フランスW杯の登録メンバーは22名でした。もし、いまと同じ23名だったなら、どうなっていたでしょうか? その後のW杯で日本代表は経験豊富な選手をメンバーに入れるようにしています。そう考えると、23名なら入っていたのではないでしょうか。登録枠1名の違いがあの衝撃的な出来事を生んだのだと考えると、感慨深いものがあります。

 カズさんはいまも現役でプレイしています。本当にすごいし、まだまだイケルと思います。平成から令和になっても変わらずに、ここまで来たらとことん現役にこだわってピッチに立ち続けてほしいです。

構成/飯塚健司

theWORLD(ザ・ワールド)2019年5月号『平成の日本代表クロニクル』特集より転載

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