水沼貴史のJリーグ発足秘話(後編) 「あえて半年契約」の現役ラストイヤーで抱いた想い

1993年5月15日の開幕戦(ヴェルディ川崎vs横浜マリノス)を皮切りに、華々しくスタートしたJリーグ。元ブラジル代表FWジーコやW杯優勝経験を持つ元西ドイツ代表FWリトバルスキーなどがプレイするなど、話題性も高かった当時の同リーグだが、創設当初ならではの問題点もあり、数多くの人々の尽力により今日の発展に至った。

Jリーグ発足秘話(後編)の今回は、同リーグ草創期にスポットを当てる。一大ブームとなった熱狂、錚々たる面々の外国人選手……。そして83年よりマリノスの前身である日産自動車サッカー部でプレイした水沼貴史氏は、95年の夏に現役を退くことになる。約2年半のJリーガー生活を終えた当時の心境も含め、リーグ草創期を振り返ってもらった。

感銘を受けた外国人選手は

感銘を受けた外国人選手は

西ドイツ代表の一員として90年のW杯を制し、93年に鳴り物入りでジェフユナイテッド市原に加入したリトバルスキー photo/Getty Images 

ーーそれでは、話を開幕戦後に移したいと思います。Jリーグが当時一大ブームとなりましたが、世間の盛り上がりをどのように受け止めていらっしゃいましたか。


「嬉しかったです、やっぱり。サッカーが世間から注目されるということですし、海外からもいろんな有名な選手たちが来てくれたので。これでサッカーが社会に認められて、それこそワールドカップとか、いろんなところに繋がっていってくれたらいいなと。僕はプレイヤーとしてはもう晩年だったので、あと何年できるかなという思いでいました。とにかくあの開幕戦に照準を合わせていたので。それに出られたというのがあったから、そのままサッカー人気がずっと続いて上がっていってくれればいいなと思っていました」


ーー日本サッカーリーグ時代と比べて、環境面で最も変わった点は何だと思われますか。


「プロになって待遇そのものが変わったので。サッカーを職業として認められるようになったのと、社会の見る目が変わってきたことで選手一人ひとりに責任が出てきた。選手一人ひとりが責任やプライドを持ってトレーニングや試合に励んでいけば競技レベルは上がっていきますよね。それでサポーターがレベルの上がった試合を観て喜んでくれる。それで日本全体のサッカーが盛り上がっていくと、ワールドカップやオリンピックにどんどん繋がっていくのだろうと。で、それは子どもたちの夢に繋がっていく。そうなってくると子どもたちが大きな夢を持ってくれるし、そうすればサッカー人口も広がって草の根が広くなればピラミッドも高くなるので、頂点が見えやすくなる。そういう風に変わっていくんだろうなと漠然と思っていました」

ーープロサッカー選手というステータスが日本社会でどんどん確立されていくなかで、 水沼さんが所属されていたマリノスにはラモン・ディアスさんというワールドクラスの外国人選手がいました。彼らとの関わりのなかで印象に残っているエピソードはございますか。


「まさにプロフェッショナル中のプロフェッショナルですよね。ディアスは超一流ですけど、その前に日産にはオスカーというブラジル代表のキャプテンが来ていました。ある意味そこからプロフェッショナルというものを学んでいたし、僕はそこから変わっていったという感じですかね。ジーコが鹿島に来て、選手たちに『それでもプロか』みたいなことを言っていたのを映像で見たことがある人はいると思うんですけど、オスカーからもそういった話があったし、僕は彼から学んだ。なので、ディアスが来たからプロとしての考え方が変わったみたいなことは無かったですかね。確かにディアスは世界的ストライカーなので、トレーニングからして『凄いんだなやっぱり』とは思いましたけど、もう僕も若くなかったので。既にいろんなことについて学びがありましたし、当時は『あと何年できるかな』という思いでした」


ーー先ほど、オスカー選手からプロとしての在り方を学んだというお話がありましたが、ぜひ彼に関するエピソードもお伺いしたいです。


「あんまり覚えていないんですけど、立ち居振る舞いが堂々としているというか、それが1番最初に印象的でしたね。ひと言で言えば凜としている。全然ダラダラしていないというか、やっぱりセレソンのキャプテンで、ワールドカップに3回も出た人だから、そりゃ当然でしょうけど(笑)」


ーー日々の一つひとつの行動に無駄がない感じでしょうか。


「そういうことですね。あと、プレイ面では“跳ね返す力”が僕らとは段違いでしたね。僕らと一緒にプレイしていた時は彼も晩年だったので、スピードはあまり無かったんですけど、空中戦で対峙した時のヘディングの強さであったり、カバーリングや展開の予測の的確さみたいなのはズバ抜けていました。まさにブラジルの3番、“ザゲイロ”(センターバック)という感じでしたよ」


ーージーコ選手やリトバルスキー選手と対戦する機会もあったと思いますが、彼らのプレイをどう感じていらっしゃいましたか。


「二人とも“凄い”とは思いました。ただ、その人たちのワールドカップのプレイをテレビで見たうえで、『あぁ、やっぱりね』と感じる部分と、『目の前で見たら全然違うじゃん』と思う部分の二つがありましたね」


ーー具体的にはどういったことでしょうか。


「実は僕、ジーコがいたフラメンゴとキリンカップで対戦しているんです。実際近くで彼のプレイを見ると、やっぱり技術は違うなとは思う。でも、この実感はテレビで彼のプレイを観ていた人と同じだよね、という感覚もあるんです」


ーーなるほど。ではリトバルスキー選手はいかがでしたか。


「彼はダブルタッチが得意なんですけど、キックフェイントとか切り返しの深さや幅がテレビで観ていたのと全然違う。『これは深い!』とか、『そんな幅でダブルタッチやるんだ!』とか」


ーーそういうプレイが得意なのは知っていたけど、いざ間近で見ると驚かされた部分が多かったと。


「そうそう! 『そんだけ幅があるんだったら、ボール取れないよね』ってなるわけ(笑)。ドイツ代表は大柄な選手が多いんですけど、当時は小柄なテクニシャンが10番をつけるという流れが何年か続いていました。彼はそのなかの一人かなって。大きな選手が多いなかでも細かなプレイだとか、テクニックだとか、そういったスキルの部分で生き残っていくんだなぁって。ああいう、ちっちゃい選手は結構好きでしたね。彼は僕と同い年だから余計にそういう気持ちになりました(笑)」

Jリーグ草創期の問題点とは 

Jリーグ草創期の問題点とは 

マリノスは守備力にも定評があるチームだった。写真奥が水沼氏 photo/Getty Images 

ーー日本サッカーリーグ時代と比べてマリノスの練習方法ですとか、施設などはプロ化と共に変わっていったのでしょうか。


「いや、そういうのは変わってないと思いますね。特別何かが変わったという印象はないです。Jリーグが始まってみて、そこから徐々に色々なことが変わっていったという感じでしょうか。そういえば、色々な役割のコーチが増えていったというのはありますね。フィジカルコーチもそうだし、ヘッドコーチがいてアシスタントコーチがいて。あとはトレーナーとかドクターとか。選手のコンディションを管理するための体制が整備されていったということかもしれませんね」


ーーなるほど。そういえば、当時はほぼ週2ペースで試合がありましたよね。今考えると物凄く厳しい日程でした。


「だいたい週2ペースで、中2日や3日でずっと続けてプレイしていました。でも、それを自分のプレイをより多くの人に観てもらえるであったり、サッカーの試合をずっとできるという喜びに変えていたかな」


ーーその当時コンディション管理の面で気をつけていらしたことはありますか。


「年齢が年齢だったので、怪我とか食事制限とか色々考えながらやっていました。僕は怪我が多いほうだったので。当時はMRIみたいなものが無かったので、肉離れが“何度”みたいな証明ができませんでした。患部から出血しているかどうかの判断もできなくて。当時はトレーナーの触診とかで状態を見極めていたと思うんですよね。後は自分の感覚で走れる走れないとか。なので完全に治りきる前にプレイしてしまうといったことが当時はあったし、テープを巻いて強行出場する選手も多かったですね。トレーナーの人たちは、選手のコンディション管理に相当苦労していたと思います」


ーーある意味そこが始まったばかりのJリーグの発展途上だった部分、ということですかね。


「そうですね。あと、それはピッチについても言えると思います。砂場の上にホームセンターで売っているような芝を乗っけただけのような所でプレイしたこともありますし。根が腐っちゃってダメになっちゃってたりとか。そういうピッチとか芝生の管理をする人たちにとっても、頻繁に試合があるし。管理が大変だったと思います。それこそ、サッカーに関わる全ての人にとって試行錯誤の時代だったのではないでしょうか」


ーー先ほど、現場に色々な役割のコーチが増えたというお話を伺いましたが、このことで水沼さんをはじめとする当時の選手たちにどのようなメリットが生まれましたか。


「昔はその選手の測定値に合わせてトレーニングメニューを変えるというのが主流でなくて、『みんなで同じトレーニングを頑張る』というのが風潮としてありました。ただ、コーチの役割が細分化されたことで選手個々の細かなデータがとれるようになって、そのデータに則ってトレーニングメニューを選手ごとに微調整したりですとか、練習のグループ分けを工夫できるようになったのは大きかったですね。たとえば、長距離を走った時にどれだけ脈拍が上がるかというのを測定できれば、長距離ランに強い選手、まぁまぁな選手、ちょっと苦手な選手という形でグループ分けできますよね。長距離ランを苦手としている選手がめちゃくちゃ速い選手と一緒に走ってもオーバートレーニングになってしまいますし、速い選手が遅い選手に合わせて走ると負荷が足りないという話になる。長距離ランひとつをとっても、事前に選手個々のデータをとることでその選手に合ったペースや強度でトレーニングをさせることができますし、選手からしても自分の体の状態や得手不得手を把握しやすい。今ではもっと細かなデータがとれると思うんですけど、僕がプレイしていた93年から95年くらいからトレーニングやコンディション管理の質が上がってきた実感はありますね」


ーー水沼さんご自身にとってはどのようなメリットがありましたか。


「昔はリハビリをするにしてもまずは自分で走ってみて、『プレイできる』と自分が感じたらチームに合流するという感じだったんです。ただ、リハビリ担当のコーチが付いてくれるようになってからは『(復帰には)まだ早い』とか、『もう大丈夫』とか、自分の状態を客観視してもらえるようになりましたね。僕は筋肉系のケガが多くて、先ほどお話しした通り当時はMRIがあまり普及していなかったので、自分のコンディションの見極めが難しかった。でもJリーグが始まってからは徐々に選手を見守る体制というものが整備されていきましたし、今では科学的なデータをもとにリハビリのメニューを決められる。今のような体制が当時整っていたら、僕ももっと長く現役生活を送れたかもしれませんね(笑)」

不退転の覚悟で臨んだ現役ラストイヤー

ーーご自身の目標とされていたJリーグのオープニングゲームへの出場が叶い、その約2年半後に現役引退をご決断されました。まずは引退の経緯についてお伺いしたいのですが。


「僕の目標だった木村和司さんが94年に引退されたのですが、同じタイミングで辞めるわけにはいかないだろうという思いがあって、『もう1シーズンやろう』と決めました。ただ、95年の契約を結ぶ前に、アルゼンチンからソラリという新しい監督が来たことも含めて、マリノスの体制がガラッと変わったんです。その時に自分の契約を1年間ではなく、あえて半年にしました。新体制のもとで自分がサッカー選手として生きていけるかというのをチャレンジとして課して、この半年でダメだったらもう辞めようと。そういうシーズンにしていました。ある選手が開幕直前にケガをして、それによって僕は開幕戦に出場できたんですけど、ケガをした選手が復帰したというのと、僕自身もケガをしてしまったということもあり、その後はなかなか出番が回ってきませんでしたね」


ーーマリノス自体もシーズン途中で監督が代わったりと、激動の年でしたよね。


「そうそう。この年の夏に色々あって、監督が早野宏史さんに代わりました。また自分にチャンスが巡ってくるかもという思いがあったので、早野さんに『自分はまだ(プロサッカー選手として)生きられるか』というのを聞きに行ったんです。そしたら『もういいんじゃないか』というふうに引導を渡されて。それで僕は『なら辞めよう』と決めました」


ーーその時に、どういった感情が水沼さんの中でこみ上げてきましたか。


「監督が代われば当然チャンスが出てくるし、早野さんは昔から知っている人だったので、『もしかしたらチャンスをくれるかな』と思っていました。ただ、それは甘かったと。早野さんは早野さんなりに考えて、『お前はもう、違う道に進め』という感じで、僕に対してリスペクトの気持ちを示してくれたのではないかと、今では思っています。ただ、当時は『チャンスが無いんだったら......』と思って普通に辞めました」


ーー確か、95年7月30日に三ツ沢球技場で木村和司選手の引退試合があって、水沼さんはその試合に出場されましたよね。水沼さんが引退を発表されたのはこの試合の後だったはずですが。


「(引退を発表したのは)多分この試合の翌日か翌々日だったと思います。ただ、木村さんの引退試合の時には、僕も既に『辞める』という決心を固めていました。なので『自分の引退試合でもある』と心の中で思ってあの日はピッチに立ちましたね。実はあの日、宏太(現横浜F・マリノス)を初めてピッチに連れて行ったんです。僕はここで辞めるけど、バトンを託すというような意味合いで。今では選手たちが当たり前のように子どもたちと一緒に試合前に入場していますけど、僕はそれまでそれをやったことがなくて。現役ラストゲームで初めて宏太と手を繋ぎながら試合前の選手入場をしたんです。宏太も当時のことを何となく覚えているみたい(笑)。他のチームで現役を続けるという選択肢もあったかもしれませんけど、自分が好きだったチームで現役生活を終えたいという気持ちのほうが強くて、この試合の翌日か翌々日に引退を発表しました」


ーー引退をご決断された当時もご自身のキャリアを振り返り、色々な感情がこみ上げてきたと思います。日本代表、日産自動車、そしてマリノスでのサッカー人生を改めて振り返って頂いて、どういったお気持ちが一番強いですか。


「色々な時代を経てきましたからね。サッカー低迷期と言われていた80年代の日本サッカーリーグ時代から僕はずっと絡んでいましたし、代表でも『あともう少しでワールドカップやオリンピックだ』というところまで行きながら結局切符を掴めなかったりとか。ただ、そういったことがありながらも最終的にはプロとして2年半もやれた、創設されたばかりのJリーグに選手として関われたというのは“感謝”という言葉に尽きますね。僕の前にもたくさんの偉大な選手たちがいて、プロリーグという舞台でプレイすることが叶わなかった方々が大勢いるなかで、僕なんかが2年半もその舞台に立たせてもらった。それまで自分がやってきたことが社会に認められて、そんな幸せな時代を2年半も過ごせたことに対する感謝の気持ちが一番強いですね」


ーー水沼さんは現役引退後、サッカー解説者や指導者としてご活動されています。現役時代のご経験が今の活動にどのように活かされていますか。


「解説者としても指導者としても、サッカーをやっている選手たちの気持ちが分かるというのが大きいですかね。どちらの仕事をしている時でも、選手たちの『もっとうまくなりたい』という気持ちをこちらが感じ取れた瞬間が僕にとって一番嬉しいです」


ーー93年に始まったJリーグも今年で27周年目を迎えました。これも水沼さんをはじめ、たくさんの方のご尽力があってこそだったと思います。最後に、今Jリーグでプレイしている選手たちや、Jリーグを愛してやまないサポーターの方にむけてメッセージをお願いします。


「選手については目の前にある1試合1試合をしっかり戦うこと、サポーターもその1試合をしっかり応援して目に焼き付ける、これを続けていくしかないんじゃないかと思います。コロナ騒動で大変な状況に置かれている今、『できることをやりましょう』という風に皆さん声をかけ合っていますよね? これは選手とサポーターの両方に言えることです。選手の一生懸命な姿が観ている人の心を打つし、その全てがみんなの頭の中に残っていく。これは93年5月15日の開幕戦で僕たちが証明したことですし、サッカーをやれることであったり、観れるのが当たり前ではないんだよということが、今回みんなが実体験として痛感したと思うので。当然、Jのスケジュールが出たときにサポーターの皆さんは『この日は行ける、この日は行けない』とか考えると思うんですよね。考えるけれども、行っている試合の一つひとつを大事に観てほしい。それが、かつてJリーグでプレイし、観てもらえることが当たり前でない時代にサッカーに打ち込んでいた僕からのメッセージです」



水沼貴史(みずぬま たかし):サッカー解説者/元日本代表。Jリーグ開幕(1993年)以降、横浜マリノスのベテランとしてチームを牽引し、1995年に現役引退。引退後は解説者やコメンテーターとして活躍する一方、青少年へのサッカーの普及にも携わる。近年はサッカーやスポーツを通じてのコミュニケーションや、親子や家族の絆をテーマにしたイベントや教室に積極的に参加。幅広い年代層の人々にサッカーの魅力を伝えている。




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