名良橋晃のJリーグ回顧録(後編)「サッカーの楽しさ、面白さをいろんな方法で発信したい」

ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)から鹿島アントラーズへ移籍した名良橋晃氏の胸中には、ブラジル代表レジェンドへの憧れがあった。目標とする選手との共闘、華々しいタイトル、そして訪れる選手生活との別れ。草創期から成熟期へと、Jリーグの成長とともに歩んだ選手生活で、名良橋氏は何を感じたのか?

ヒーローだったジョルジの退団セレモニーで号泣

ヒーローだったジョルジの退団セレモニーで号泣

ともにプレイしたジョルジーニョは憧れであり、目標だった photo/Getty Images

──1996年にアントラーズへ移籍しましたが、どういった経緯だったのですか?



名良橋 前提として、ボクがアントラーズに行きたかったというのがあります。理由は3つあって、一番は憧れであり、ヒーローだったジョルジーニョ(以下ジョルジ)がいたからです。95年夏にジョルジがアントラーズへ加入し、そこから「行きたい」「一緒にプレイしたい」と思うようになっていきました。次に、同い年の相馬直樹と同じ方向を向いてプレイしたいという思いがありました。さらに、カシマスタジアムの雰囲気を味方につけてプレイしたかった。要は、アントラーズに片思いしていました。

──そこから、どう交渉していったのでしょうか?



名良橋 移籍についてはチーム間の話し合いになりますが、当時は仲介人がいませんでした。そうしたなか、わがままを聞いてくれたベルマーレに感謝していますし、アントラーズの鈴木満さん(当時の強化部長)には大変お世話になりました。満さんには、一生頭があがりません。両チームの強化の方々には、ホントにもう感謝しかないです。

──いざアントラーズへ加入し、どのような印象を受けましたか?



名良橋 ピリッとしているというか、練習から妥協することがなかったです。ベルマーレもそうでしたが、とにかく勝負にこだわる。細部に至るまでこだわるチームだなとすごく感じました。初年度がブラジルキャンプだったのですが、暑いなか、練習についていくのが大変でした。練習方法、選手の特長がぜんぜん違うので、必死に食らいついていきました。

──ジョルジーニョについてはどんな印象を持ちましたか?



名良橋 ブラジルキャンプで目の前にジョルジがいました。最初のころは「これは夢じゃないよな」という気持ちしかなかったです。同時に、一緒にプレイしたら必ず成長できる。いや、成長しないといけないと思っていました。それが、ベルマーレへの恩返しになると強く感じていました。

──アントラーズで数多くタイトルを獲得しています。もっとも印象に残っている優勝を教えてもらえますか?



名良橋 1998年のJリーグですね。夏に監督交代があってゼ・マリオが就任し、セカンドステージから3バックで戦いました。しかし、結果が出なかったので選手みんなでミーティングを行ない、4バックに戻そうとなりました。ゼ・マリオも意見を尊重してくれて、4バックに戻しました。自分たちから進言したので、結果を出さないといけなかったんです。そうしたなか、4バックで勝利を重ねてセカンドステージに優勝し、チャンピオンシップも制しました。このときの優勝が一番印象に残っています。

──苦難を乗り越えて掴み取った優勝だったのですね?



名良橋 ファーストステージを取れず、セカンドステージもスタート奪取できませんでした。そこから原点回帰し、優勝まで突っ走れた。自分のなかで記憶に残っているタイトルです。あのとき、選手の意見を監督に伝えてくれたのがジョルジでした。そして、1998年はジョルジのラストシーズンでもありました。“師匠”の最後をJリーグ優勝で飾れてとてもうれしかったです。

──ジョルジーニョがチームを去るときに、イベントのようなものはあったのでしょうか? もし会ったとしたら、どのような気持ちで送り出したのですか?



名良橋 同年の天皇杯初戦で退団セレモニーがありました。場所は笠松運動公園陸上競技場で、相手は筑波大学でした。試合に出場しないジョルジも会場に来ていて、試合後にセレモニーがありました。ボクはもう、号泣でした。ひとりで泣きましたよ。翌日も家族で成田空港に見送りに行きました。同じくジョルジをリスペクトしていた中田浩二も一緒でしたね。さすがに、空港では号泣しなかったです。

ここ数か月で日常にサッカーが存在するありがたみを実感できた

ここ数か月で日常にサッカーが存在するありがたみを実感できた

2006年まで鹿島でプレイ。写真は2001年10月の柏戦での先制点 photo/Getty Images

──長く現役を続けるために、取り組んでいたことはありますか?



名良橋 とにかく、1年1年が勝負でした。おかげさまで大きなケガはしなかったですが、年齢を重ねるにつれてやっぱり小さなケガが増えていきました。衰えたと考えたくなかったですが、いま思えば徐々に衰えていきつつあったのかなと思います。だけど、身体は強かった。家族のバックアップがあったし、恵まれた身体に生んでくれた母親のおかげでもあります。いろいろな助けがあったので、改めて家族へ感謝したいです。

──そうしたなか、いつごろ引退を考えたのでしょうか?



名良橋 2007年にアントラーズからベルマーレへ移籍したときは、もっと続けたい気持ちがありました。サイドバックとしての理想があって、まだまだ自分は衰えていないと考えていました。だけど、いまはもう少し年齢に応じたプレイをしてもよかったのかなと思っています。当時は、そう考えることができませんでした。年齢に応じたプレイをしていれば、もっと長く続けられたのかもしれないです。

──ベルマーレに戻ったときは、まだまだ現役を続ける気持ちがあったのですね?



名良橋 ケガが続いていて、自分のなかで不完全燃焼な時期でした。プロ生活をスタートさせたチームで、もう一度リスタートしたかった。あのときのベルマーレはJ2で、心機一転もう一度スタートしようという思いでした。「引退に向けて古巣に戻った」という気持ちはまったくなかったです。そこで納得できるプレイができなかったのは、単純に力が足りなかったからです。

──アントラーズでの10年間は、サッカー人生にどんな影響をもたらしましたか?



名良橋 ありきたりですけど、アントラーズでの10年間で、人間的にもサッカー選手としてもいろいろな意味で成長することができました。父親になったのがアントラーズにいたときで、ピッチ内外でいろいろな方に支えていただきました。サッカー選手として、父親としてステップアップすることができました。

──子育ては大変でしたか?



名良橋 いろいろと気を使わせてしまった部分があり、ボク以上に妻が大変だったと思います。家族といるとホントにリフレッシュになりましたが、父親としての立ち振る舞いを考えないといけないこともありました。楽しいこと、辛いこと。良かったこと、悔しかったことがありました。すべてを積み重ねた10年でした。

──いよいよJリーグが再開します。どのような思いがありますか?



名良橋 ここ数か月で日常にサッカーが存在するありがたみ、楽しさをつくづく感じました。これまで、サッカーがある当たり前の生活に慣れてしまっていたのかしれません。改めて、生きていることに感謝しないといけないです。スポーツ、サッカーは人生の一部なのだといまは実感しています。だからこそ、サッカーがある日常に一日でも早く戻ってきてほしいです。ただ、もちろんまだリスクがあります。いろいろな人が、それぞれの立場で楽しみ方を考えないといけないと思っています。そのうえで、常に笑顔でいることが大切だと感じています。

──ご自身がサッカーに貢献できるのは、どういったことだと考えていますか?



名良橋 いまはできることが限られていますが、サッカーの面白さ、楽しさをいろいろな方法でいろいろなところに発信したいです。ネガティブに考えても次に繋がらないので、常にポジティブに、いろいろなことを発信したい。現時点でなにができるのかを判断しながら、サッカーの楽しさ、見方、面白さを追求して、いろいろな方法で発信しないといけないと感じています。とくに、最初は観客がいないリモートマッチになるので、よりサッカーの楽しさを伝えないといけないと思っています。

取材・文/飯塚健司


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