ーー水沼さんは学生時代にユース代表としてご活躍され、83年から日産自動車でずっとプレイされていました。この80年代前半にどのようなサッカー人生を思い描いていらっしゃいましたか。
「当時プロリーグは無かったし、サッカーキャリアが終わったら普通に会社に勤めるというかサラリーマンなんだろうなというイメージで日産に入ったんですね。ただ、ずっと続けてきたサッカーで代表というのが目標にあって、ワールドカップは夢の夢みたいな感じだったけど、『オリンピックには出たいなぁ』と、その頃は思っていました。83年に普通に会社に入ったんですけど、85年からは嘱託というプロみたいな契約にしてもらって。そこから自分は職業としてサッカーをやっているという意識だったかな。でもそれは自分の意識だけで、実際日本サッカーリーグがプロだったかと言うとそうではない。環境としてはアマチュアだったというのが80年代だったと思いますね」
ーー当時のライフスタイルがどんな感じだったのか、お伺いしたいんですけれども。
「入社して2年くらいは会社に行っていたので、午前中は会社に勤務して午後に2時間から3時間くらいのトレーニングをするというのが続いて。嘱託というプロみたいな契約になってからは完全に会社へは行かなくなった。そんな日々でした」
ーーちなみに、会社でどのようなお仕事をされていたのでしょうか。
「生産課という、工場のラインに部品を供給するというような部署にいて、工場に部品を組み立てるための部品を外部から発注して、それを納入するみたいな。そんなところでした」
ーー貴重なお話をありがとうございます。会社員としての生活とサッカーの両立という、かなり大変な時期を過ごされたということですよね。
「まぁ、それは2年間ですね。でも当時はそういうのが当たり前だった。ただ、僕たちは他の会社と比べればある意味仕事を任せてもらえなかったというか。普段、午前中でいなくなってしまうからです。だから会社員としては凄く中途半端だったような気もします」
ーーそのような毎日を過ごされる中で、日本にプロリーグが創設されるという話を初めて聞いたのは、いつ頃でしたか。
「プロリーグ創設の話を最初に聞いたのは、多分87年から88年くらいだったと思います。メキシコ・ワールドカップのアジア最終予選で日本が韓国に負けて、本大会に行けなくなったというところから。韓国ではすでにKリーグというプロリーグができていたので、日本もプロ化しないとライバルの国に追いつけ追い越せができないんじゃないかという雰囲気になって。それで、先陣をきって協会などに働きかけしてくれたのが、その当時代表監督だった森孝慈さん。これがきっかけだと思います」
ーーだんだんプロ化の話が具体的になっていくなかで水沼さんが感じていらしたことや、周囲の反応、環境の変化についてお伺いしたいです。
「入社してからの2年間は会社に勤めていて、3年目からはプロみたいな契約にしてもらって嘱託社員としてずっとやってきたんですけど、当時のリーグはプロじゃなかった。プロ化されるということは、自分のやってきたことがある意味社会に認められるような時代が来るのではないかと思ったわけです。自分としてはプロという意識でやっていたけど、社会的にはプロと認められていなかった。日本代表の人の名前くらいは世間に知られていたけれど、日本リーグでプレイしているその他の選手のことなんて多分みんな知らない。そんな時代だったので、自分のやってきたことが社会に認められるような時代がようやく来るという喜びというか、嬉しいなと思いましたね」
ーー社会の見る目が変わったと。
「多分、プロ選手になれば見られ方が全然違うんだろうなと。“サッカー選手”なんて書けないわけですからね、履歴書とかに」
ーープロ化の話が出てくる前は、ということですよね。
「そうそう! 自分はプロみたいな形で会社と嘱託の契約をしているけれども、履歴書には“会社員”としか書けないんですよ。だけどプロリーグができればプロ選手として認められるから、“プロサッカー選手”って書ける。それは全然違うので」
ーー当時のそうした喜びを、チームメイトを含めて色々な方と共有されたと思うんですけど、プロ化について当時のチームメイトや監督とお話しされたことがあれば教えて頂きたいです。
「入社3年目にプロみたいな形で嘱託の社員になるか、会社にそのまま会社員として残るかという選択があったんですね。僕は嘱託の社員の方を選んだんですけど、同期のなかには会社にサラリーマンとしてそのまま残るという判断をした人もいた。プロ化されるということは、自分たちが会社に対してやってきたことが認められるということだから、自分としては先が分からなかったけれど、プロみたいな契約にしてある意味“人生の勝負”をしたんですね。その当時は会社に入れば当たり前に終身雇用の時代だったのですが、そこを選ぶか、勝負して嘱託でやっていくかの判断は間違っていなかったと思います」
ーー思い切りましたね。
「そこでそういう判断をしてようやくプロになって、その舞台でできるっていう風になったから、『アイツの判断は正しかったんだ』とか、『自分もプロとしてやっていくんだ良かったな』とか、いろんな感情が周りの選手からは生まれていたはずです。だけど『良かったね』という話を周りの人とはしてないんです。自分のなかで噛みしめていただけ。環境が違う人もいたので、喜ぶわけにはいかなかったかな。今までやってて良かったなとは思いましたけど、本当に先の分からない世界だったので」