ヘルタ・ベルリンはいわゆるエレベーター・クラブで、2010-11シーズン(2部)以降、1部と2部を行ったり来たりしている。原口元気が加入した14-15シーズンは1部で戦う2シーズン目を迎えていた。
チームを率いていたのはヨス・ルフカイで、1部に定着するべく新たな試みをはじめたシーズンだった。ルフカイは堅守をベースにカウンターでゴールを目指すスタイルを指向していたが、14-15シーズンはパスをつないで攻撃をビルドアップすることにトライしていた。ところが、これがうまくいかなかった。
チーム全体の意識が攻撃に傾いたことで守備のバランスが崩れて失点を重ね、第19節を終えた時点で17位と降格圏内にいた。原口もサイドアタッカーとして試合には出場していたが、必死にボールを追いかける日々が続き、本来の特徴を発揮できているとはいえなかった。
状況が好転したのはパル・ダルダイが監督に就任してからだった。ダルダイはもう一度チームに守備の意識を植えつけ、短期間で安定感を取り戻した。その初期段階において原口は試合に出場できない時期があったものの、戦力外と見られていたわけではない。
ダルダイは日本にいたころにどんなプレイをしていたかをDVDで確認し、その能力を高く評価していた。このころのダルダイは、「たまに日本にいたころのDVDを本人に見せて、『ゲンキ、このように決めてくれ』と話している」という言葉を残している。また、スポーツディレクターのミヒャエル・プレーツとともに、原口と一緒に朝食を摂って話し合ったこともあったという。
こうした経緯でヘルタ・ベルリンのなかで原口の存在感が徐々に増すと、攻撃面で持ち味を発揮するようになり、第25節シャルケ戦ではブンデス初ゴールをゲット。さらに、第30節バイエルン戦では前半を右サイド、後半は左サイドでプレイし、攻守両面でスター軍団に臆することなく勝負を挑み、0-1で試合には負けたが、原口自身は多くの場面で勝利することでポテンシャルの高さを証明した。
原口=キレキレのドリブルというイメージがあるが、守備においてもチームのなかでしっかりと役割を果たしている。高い位置で周囲と連係して効果的なプレスをかけ、激しいボディコンタクトでボールを奪う。バイエルン戦において左右両サイドでプレイしたのは「守備に関する指示を出しやすくするため、ゲンキが常に私の近くに来るように起用した」(ダルダイ)という理由によるものだった。